投稿者
 メール
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ]


知らされていなかった利点

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 4月 7日(日)05時22分49秒
  というよりはそこが無理だったのか?
「そもそも配達スピードが速い遅いでどうこう言うのがおかしい。
人間なんだから差がでるのは当たり前で、日によってコンディションも違うわけだし。
要は誰がやっても差がでないようなシステムを作らないといけない。
少なくとも昔勤めてたトヨタの工場はそうだった。
つくづく思うが日本郵便はトヨタと提携した時何を学んだんだろうか…」
某掲示板の退職者の方より
 

また巡来る命日

 投稿者:被強制配転者  投稿日:2019年 3月31日(日)15時44分57秒
  ブラックホールへと落ちてゆく

なすすべもなく落ちてゆく

地獄のその先は、また新たな地獄が続くだけ

悪い方向へと、悪い空間へと、悪い時間の中へと

苦痛にもがきながら、果てしなく

ココロのスイッチをOFFにして、闇を漂うだけ


あぁ、死 ぬ 以 上 に 苦 し み 続 け る。



   あぁ、死 ぬ 以 上 に も が き 続 け る。



      あぁ、死 ぬ 以 上 に 彷 徨 い 続 け る。
 

郵政のトヨタ方式は

 投稿者:じろ  投稿日:2019年 3月 1日(金)00時37分13秒
  平成の終わりにしきりと巷は平成を振り返る

ある集配員から、
朝日に郵政のトヨタ方式失敗が載ってたよ   という。
夕刊である。
実家に帰った時、探したが、夕刊は取っていないという。
意外と、一流新聞の夕刊は断っている家も多いらしいー

さておき、
久々の図書館で探した。
「平成とは」というシリーズで、奔流トヨタ
ホトケに魂を入れる難しさとして、トヨタ方式を米GMが
真似ても上手くいかないという記事の
後半にたったの5行。

トヨタ流で郵便仕分けを見直したが効果は進まなかった

おいおい、あったよなあ
線を引いて何歩で移動する
順立ても、特殊室からも椅子をてっきょする

何秒減らせるかとやっきになっていた時代

今の作業場はコンプラ第一で、全てが残業代に繋がる。
それでいて、残業するなと追い詰めるが
集配の帰りは遅い。
18ー20の希望を、帰ってこない集配員に夕刻5時近くに
連絡すれば、その為にバイクで回ることでさらに遅くなる。

再配希望の為にいくら残業代が掛かっているのか

紙の無駄も多い
トヨタ方式は何だったのか なあ
そして、講師指導料外注費膨大で、いまや痕跡無し。
責任も問われず、ブームと共に消えて知らん顔

平成の郵便局も振り返って反省すべきだなあ
 

ゴリちゃんが亡くなられた?

 投稿者:じろ  投稿日:2019年 2月25日(月)12時46分19秒
  東京東部時代のつながりですまないが

全逓東京東部地区青年部で、ひときわ異彩を放っていた
ゴリちゃんこと、山岸 政志郎 さんが亡くなりました。

3.11後、反原発集会で一緒に参加してきたが、
この間は、春には船橋でお花見
  年末は忘年会で顔を合わせて盛り上がってきました。
笛を吹けば、わあ~っしょい!
そんな声が今でも耳に残る、お祭り男で、労働運動を
一身に突き進んできたゴリちゃん。

肺がんの苦しみの後ですが、
4年前に交通事故で一時、記憶を失い!
妻の顔も判らぬところから、なんとか復活してきた矢先でした。

大いに泣かせてもらいました。
99臨中で、檻の中に私がいられたのは、
外にいるゴリちゃんとの繋がりがあったからです。

東京が、少し、遠くなったー
 

小包 アーカイブ 「昔、小包は空を舞っていた」

 投稿者:じろ  投稿日:2019年 2月18日(月)11時34分11秒
  物が捨てられない理由の一つに
全てのそこに、価値を感じて勿体無く思うから?

30年以上もまえだろうか、こんな記録が出てきた
郵便の全ては、郵袋に詰め込まれて輸送
小包も放り投げられていた。

区分局2F 小包課
シューターが稼働していた風景
 

母が亡くなって―

 投稿者:じろ  投稿日:2019年 2月 8日(金)00時14分54秒
  しがない郵便屋が静岡に土地を買って、家を建てて、娘二人を仕送り大学

出させて、結婚式挙げて~

正直、親の支援と親の年金が注がれ続けてきたのは事実だ。

無論私も、深夜勤を積極的に30年近く続け、年間の祝日はすべて出勤し
かなり厳しい働きだったが、残業は喜んで受け入れてきた・・・

しかし、金は貯まらない人生できた。

私は決して、マザコン男ではないと自負しているが、
たまの実家で、妻が母に嫌味を言われても、
妻をフォローすることはなかったし、実家で妻への気配りもなかったし、
母からは目いっぱいの干渉を受け入れてきた。

まあ、大いに依存してきた。
一昨年の父に続いて、1月30日深夜に自宅で息を引き取り、
明けて早朝、担当医師によって31日、死亡と確認された。

親父は多くの絵を残したが、母は俳句を残した。
しかしそれを「句集」としてまとめるだけの今は力がない。

ただ、
2015年5月15日の中日新聞に、
東京新聞・中日新聞 共同企画「平和の俳句」に、選ばれた。
選者は、
いとうせいこう氏と 金子兜太氏で、見事という作だった。

青酸カリ 配られしこと 敗戦忌

まさにストレートな衝撃である。
この時の自宅への取材記者の解説も見事だった。その記事を葬儀に添えた。
このお通夜の夜、
葬儀場に泊まった私の下に、宮沢輝明さんという中日新聞記者が見えられ、
新聞の写真を持参してくださった。
新聞のコピーに写真を貼り、
母が大切に保管していた、当時、写真館で撮ってもらったという20歳の写真も
くっつけた。
(これをみて、マザコンと言われても 惜別の時だからかまわない)

ただ、
本当に晩年。この浜松飛行学校に勤めていた頃の話を良くした。
自分より年下の青年たちが、志願して鹿児島に向かっていった。
何人かを見送ったと。

その時、上官から「鹿児島に向かう人たちに手紙を書いてくれ」
と言われた歌が、

君 大空に命ささげし ますらおの 幸を祈りて筆を運ばん-

年明けに会った時、机に書き留めてあった。
この時代、そして敗戦による「自決」と隣り合わせの事実。

この話を、この時代に少年で過ごした方は、
「うちの母親も青酸カリを渡されて、米軍が来たら子供を殺せ と言われた」
と語る。
敗戦時、どこにでもあった事実として、記憶に刻んでくれた。
 

転職、休職 とか

 投稿者:じろ  投稿日:2019年 1月26日(土)12時07分18秒
  私の身近な人が、転職、休職で、
あまりに身近だと、
職場の誰それを揶揄する言葉に引っかかる。
いや、
先日のNHKの.発達障がいの番組を見て

変わった人  は、分類できると、分類で言えば私は
ものが捨てられない 症候群です。
孫を調子付かせると、多動症になっちゃう  と、周りが言う。
落ち着きがない子  とは、子供への常套句だ。

昨日の人生相談では、
物が捨てられない人が出ていた。
感情も抑圧されて溜まり過ぎていると
わたしは、
あらゆる身の回りのものに、価値があると思ってしまう。

賀状 版画は、机の周りが汚過ぎて断念した。
アトリエが欲しいほどだ、
2月は、立春の便りを描かねばならない。
2月1日の.日経新聞の講座も行くことになった。
そして、
小包委託社長からの年繁反省の資料を元に、
ひとまとめもしたい。

ああ、当分、ダメだなあ
 

医師の診断

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 1月25日(金)05時43分50秒
編集済
  はっきりした診断がなければ障害名を出すのは望ましくないと思います。
ネット上で飛び交う誹謗中傷・誤用。
鼻が悪いから「花粉症」
いじめられて引きこもったから「自閉症」
大人のくせに子供っぽい「アダルトチルドレン」

実際そういう診断を受けた知り合いに対する揶揄としても、
自嘲気味にでも。
障害に対する理解は大事ですが。
ジローさんのことですから郵便局の場合それが「理解」を口にしながら「排除」に利用される懸念があって書かれたのかもしれませんが。
 

ADHD 片付けができない

 投稿者:じろ  投稿日:2019年 1月10日(木)23時50分38秒
  変わった人
とはいるものだが、
現代社会では「発達障害」と位置付けるそうだ。
確かに郵便局員のような大衆一般人の集まりでは
変わった人も多々見られ、
発達「障害者」と命名すればそれもありだと思える。

ADHD  は、落ち着きのない多動性だが
片付けができない
遅刻が多い
と、説明されていた。
まさに、自分である。

遅刻は、
記録にはされていないが常習癖
そして、
部屋が片付かない、捨てられない。
捨てようとしても、一つ一つ手にとってはまり込む。
まさに、
ADHD  までは自覚するが、ではどうすればしがらみから
だっせられるかが
わからない・・・
 

1991年のこと、

 投稿者:じろ  投稿日:2018年12月16日(日)20時28分12秒
編集済
  郵便局員人生としての、遺言

全逓99臨中の防衛隊―

世に、反対派の行動は多々あるが、壁を隔てて対峙すれば押し合いになる。
しかし、社会が激変するとき。体制が崩壊するときはその内部に起因する。
だから「国家は暴力装置だ」と定義づけたとき
その「暴力」は国民に対してである。
四面楚歌の国家でも、国内「治安」を第一義としてあがけば、その体制は逃げ
延びることができる。

私たちが全逓静岡南支部を生んだ時、イデオロギーの上では右から左までいた。
ただ、その時の全逓静岡支部、浜松支部、清水支部にも社会党以外の左派・「セクト」は
それぞれにいた。
今でこそ、「全逓内良心派」を私は信条としていたと振り返るが、
私もまた、東京東部から転勤してきた「セクト男」と誤解され続けていたようだ。

しかし、私は自由な発想を支部運動に繋げてきた。
だから全逓静岡南支部の執行部には、ゴリゴリの公明党もいたし共産党もいた。
社会党の選挙では彼らには行動を割り当てなかった。気持ちの離れた立場での動員、選挙行動こそ偽りの組合活動でしかないから。そのかわり、現場労働者の弱者に立った発想をくみ取った。
清水は、ついこの間まで「一色」のセクトが複数支部役員に居座っていたが、
おひざ元で私が見る限り、弱い立場の非正規雇用者や女性からの評判は悪かった。
私が嫌うのは、セクトの人間はセクトの指示利害を最優先することだ。

清水に労働運動が育たなかったこともそれである。
なまじ、支部役員を複数で握っていたから、握り続けてその維持のために
支部大会も「質問なしのシャンシャン大会」で終わろうとし、
分会会議も開けないし支部のビラも出さない。
「目立つ行動」は「強制配転による役員つぶし」にあうことは予測がつく。
しかし、役員の重鎮二人は年齢で去っていった。
自称・マルクスを語るならばそういう姿を底辺の労働者に示すべきと感じる。
それが、強制配転によって排除されようと、今の立場を最大限活用することが、労働者としての姿ではないか。
さて、
まだ、清水も、浜松も勢い「全逓静岡地区支部内」に根を張っていた頃―
年賀を飛ばした「反マル生越年闘争」、明けた「4.28処分」を全逓は東京中心で
「反処分闘争」として展開してきたが、1991年のこと―
全逓はこの闘争を捨てる決議をする。
それが、
全逓静岡おなじみの「富士見ハイツ」で行うという。
私が静岡に転勤してきたときは1985年。深夜勤導入の反対闘争が盛り上がっていた時である。
当時、静岡・静岡南局中心に800名の大支部だった全逓静岡支部は、どこにもある
「支部の金で酒の飲み食い役員」の不正弾劾で大きく変動しようとしていた。
核は複数いたが、原動力は一般組合員。
特に、200名近い「地域区分局郵便課分会」は、新人たちの「組合費高い」不満もあり
エネルギーがあふれていた。そんな中にUターンで東京東部の小さな支部から飛び込んで、
私は、郵便仕事はできないが、ビラは作りたいという、天職を得た気がした。

全逓静岡支部は1986年に、臨時大会を経て夏の支部大会で執行部が刷新された。
私は「教宣部」という朝ビラ担当となる。
手探りの出発の新生・静岡支部は、早々に「主仕掛け人」石垣さんが東京に飛ばされたことで混乱したが、一度動き出した「執行体制」はそれを再度転換させるには、多大なエネルギーがいる。旧役員も当局も露骨に反撃を仕掛けてきたが、支部大会が夜間にづれ込んでも、執行部は維持された・
次の難題は、800名静岡支部の分割だった。
静岡県地区本部からすれば、800名支部=地区大会で10名もの代議員がそろっては、抵抗勢力極まりない。そういう思惑もあっての支部分割だろうが、晴れて「全逓静岡南支部」が誕生した。私は書記長として、「絶対に当局に取り込まれない人物」を求めた。

正義感のハンパない公明党と、しかし彼はお金にルーズだから、会計はお金に固い人。しかし彼は押し切られやすいから、もっと正義感を曲げない共産党支持者。
彼にも確執はあった。
全逓社会党支持下で、共産党支持者は迫害を受けた過去があった。
だからこそ、私は彼を必要とした。セクト一色の支部は腐敗するから。

深夜勤反対闘争は続いてきたが、全逓の課題は、4.28反処分闘争の撤退である。
私は、東京東部で保険課に勤めていたから、全く職場闘争は蚊帳の外だった。
就職した春に、全逓はストから脱落し、その暮れに越年闘争に入る。
明けて、私は結婚式という、職場闘争とは無縁の中にいた。
そして、4.28処分後に全逓に加入した。
しかし、宿舎に地本の青年部長がいて、4.28闘争のビラはガリ版のころから作ってきた。
青年部は28日になると、東部の各局を回って反処分を訴えた。
解雇入れて61名の処分は、東京に集中し、58名が一般組合員という異例な処分だった。

全逓本部指導の下の闘争が、現場先端青年に免職処分である。
その人選を「全逓」もすり合わせで了解していたという後の暴露もあったが、
東京の集中は全国から見て、東京はやりすぎだったのか という不信分断を生み、ここ静岡でも4.28はあまり話題にはなっていなかった。
私は、4,28は20代の郵便人生の只中にいた。
静岡南支部は、深夜勤反対や強制配転反対で全逓全国大会に、千葉大会から支部のビラをもって会場前訴えをし続けてきた。全国から各セクトのビラ撒きは多いが、4.28の人たちとは昔の東京東部のつながりで顔なじみである。

千葉大会は機動隊の規制線が徹底していた。
あれから、金沢、秋田、岐阜、広島、長崎と全国大会巡礼を続けたが、さすがに機動隊の規制線もジュラルミンの盾の壁もなく、大会が始まれば警備動員の地元組合員とあいさつも交わした。そうなのだ。警備で動員されている一般組合員も郵便労働者である。
むろん、ビラ撒き隊にとっての「敵」ではない。

99臨中は、4.28反処分闘争の切り捨て決議だから、当然荒れるだろうが、この反動的中央委員会が静岡のおひざ元で行われることに意義は大きい。なぜか。

地本は金井の下で各支部三役が集められ、私も出席した
しかし、静岡支部、浜松支部、清水支部の3役にいる主だった「左派」面々は出席しない。
会議中、浜松支部の池田氏は「こんな行動は僕にはできない」と、退席。
しかしだ、最初から出ない人、途中で退席した人。
それは、自分勝手な行動でしかない。周りに影響は与えたのか。
防衛隊が「犯罪行為」かどうか。そういう論議もなされなかった。

私は会議で、
私は青年部時代に4.28を闘い手助けした。この臨中の問題は大きいし、反対派が結集しても「悪い人たち」ではありえない。私の知る人達だ。
金井は、
過激派が爆弾をもって突っ込んでくる。
おいおい、それを無防備で防衛するのか!は、常識として判断つくだろうが、
なにしろ、全逓左派は過激派だ!で周りを取り込む手法だ。当然、静岡南支部は「過激派だ」という論法で東海地本の会議でも見られていた。

さて、
当日は確かに4.28切り捨ての決議がされたが、富士見ハイツ前は門を隔てて、反対を主張する群衆と、敷地内に私たちが群れていたわけだが、
押し合いの中で「4.28の意見書」を渡そうとしてくる。防衛隊はたいがい判断がつかないから「知らん顔」をする。それでは壁ができたままだ。
防衛責任者は、富士見ハイツ支配人の前・静岡地区委員長の杉山治さん。
混乱に、どう済んだ受け取れよ!と言ったのは壁の内側からである。

県下の活動家たちが、この重要な中央委員会に背を向けて過ごしたのだが、
なぜ防衛隊・壁の内側に結集して工作活動をしようとしなかったのか。
どういう形であれ、99臨中を内側からつぶせなかったとはいえ、外と中とで、99臨中の「恥ずべき判断決議」に全逓静岡地区内面々の抵抗はできたはずである。
全逓静岡支部は刷新できたが、県地区は変えられなかった。本気で変えようとするなら支部三役にいる以上その立場を最大限利用すべきである。
それが運動・活動ではないか。

99臨中後も、全国大会で南支部は4.28と共にビラをまき、私は支援を表明し、
晴れて勝利を祝いあった。静岡支部免職者の石垣さんとともに祝賀会にも参加した。
99臨中に背を向けた行為は、自己満足のなにものでもないと今も思っている。

外からJP労組の悪口を言うのは、気持ちはわかるが、JP労組にとどまることで今まで交流のなかった特定局労働者の生の声も聴ける。
喉元の骨であってもなんでも、体制・権力が嫌がる存在であることに意義を感じる。

「おりこうさんでいること」、自分から「去る」ことは体制を喜ばせるだけでしかない。
 

/35