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犯罪

 投稿者:しみずん  投稿日:2019年 7月 1日(月)05時43分34秒
編集済
  6月上旬に窃盗容疑で逮捕された人は昨年9月に南局をやめた元期間雇用社員のようだが、
南局との間にもトラブルを感じさせる書き込み(集配課長との交通事故?)が自ブログに書かれていたり一時は総務部長の顔写真まで(現在は削除)どんな事情かは興味本位で知りたかった。
が、ツイッターやFBでも一方的な書き込みのみ…南局の社員のものかはわからないが誹謗中傷のコメント書き込みに対し、そこ(南局)の連中によるものだ断定した書き込みもありました。
なんとなく「一癖も二癖もありそうな」の人相はしてたがもしかして南局でもかなリのトラブルメーカーだったのだろうか。
期間雇用の扱いのひどさ労災隠しや社員つぶしで有名な南だけにどっちもどっちの事情があったのだろうか?
 

フラグ

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 5月14日(火)06時01分54秒
編集済
  まだ知り合いの上司先輩同僚四人程度で「ジンクス」とも言えませんが郵便局65歳「人生の定年」の方が多いので事故や病気は気を付けてください。  

交通事故の痛ましい事例が続くなか

 投稿者:じろ  投稿日:2019年 5月 9日(木)18時39分34秒
  かくゆう私も、バリバリに南幹線を突っ走ってる。

このところヤバいのは、信号無視とシートベルト不着用。
そして先日夜、
ジャスコのあたりからパトカーがいたので
50キロ制限を20はオーバーしないように
60キロを超えて、隣を伺いながら
振り払ったつもりが
パトカーに止められた!

何を急いでいるのか  という
いや、
80キロは出てたぞ
いやいや、70は絶対越してません、捕まりますから
でも、危ないなあ
せめてパトカー見たら制限速度守ってね
??
そんなやりとりで解放

実は夜勤で帰る南幹線は魔物に取り憑かれる
①清水局から駅前交差点をそのままクリアできると
必ず、新清水駅辺りで信号赤
だから80キロで南幹線二つ手前信号を右折
カギ型に折れて南幹線に出る。

②次の難関は入江岡の信号に引っかかると桜橋で必ず止まる
入江岡をクリアすると桜橋はすぐに青になる

③すかさず桜橋から80キロでハナミズキ通り交差点に向かうと
歩道者赤点滅で通過できる
そのまま80キロでジャスコ手前交差点に向かう
ここを通過しても
④一番の難関、御門台の五叉路
ここの信号は長い
うまく流れで青を待つ。
ここの青は、5叉路5番目の右信号が赤になって5秒待たされる
そして、
青の1秒前に発進して80キロで草薙駅前信号を
通過する

それが、清水局帰りの私のミッションで
草薙あたりの脇にパトカーが張っている
ただし、夜はスピードやってないから信号を強引に
渡ると捕まる

そんなわけで、毎夜、ドキドキしながら80キロの
誘惑と戦っている
いち二度、桜橋から信号全て通過したことがある
ドライブレコーダーで記録していたら
絶対公開したくなるが、それは罪だ。

そんなことよりあと11ヶ月、
ゆっくり走る精神状態に戻したい
なまじ仕事がのろくなってきているから
ハンドル持つと燃えるようだ

危ない危ない
 

早早番の前超勤

 投稿者:じろ  投稿日:2019年 5月 3日(金)00時35分1秒
  先日、早番が3日連続した。
初日から
4時半にはパソコン立ち上げ希望再配達処理。
4時45分を過ぎて、出勤カード入力

さすがに初日から食事削って働いたから
次の日は4時半に出勤カードかざした

まあ、
15分の幻の休憩をさっ引かれるから
15分の前超勤。
二日続けて、
後日、超勤確認したら、4時半に出勤のはずが
4時40分出勤に操作されていた
事もあろうに、たった5分の前超勤だという。

おいおい、
朝の4時半から働いて、5分とはどういうことか

なんなんだ!清水の郵便部の勤務管理は
 

知らされていなかった利点

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 4月 7日(日)05時22分49秒
  というよりはそこが無理だったのか?
「そもそも配達スピードが速い遅いでどうこう言うのがおかしい。
人間なんだから差がでるのは当たり前で、日によってコンディションも違うわけだし。
要は誰がやっても差がでないようなシステムを作らないといけない。
少なくとも昔勤めてたトヨタの工場はそうだった。
つくづく思うが日本郵便はトヨタと提携した時何を学んだんだろうか…」
某掲示板の退職者の方より
 

また巡来る命日

 投稿者:被強制配転者  投稿日:2019年 3月31日(日)15時44分57秒
  ブラックホールへと落ちてゆく

なすすべもなく落ちてゆく

地獄のその先は、また新たな地獄が続くだけ

悪い方向へと、悪い空間へと、悪い時間の中へと

苦痛にもがきながら、果てしなく

ココロのスイッチをOFFにして、闇を漂うだけ


あぁ、死 ぬ 以 上 に 苦 し み 続 け る。



   あぁ、死 ぬ 以 上 に も が き 続 け る。



      あぁ、死 ぬ 以 上 に 彷 徨 い 続 け る。
 

郵政のトヨタ方式は

 投稿者:じろ  投稿日:2019年 3月 1日(金)00時37分13秒
  平成の終わりにしきりと巷は平成を振り返る

ある集配員から、
朝日に郵政のトヨタ方式失敗が載ってたよ   という。
夕刊である。
実家に帰った時、探したが、夕刊は取っていないという。
意外と、一流新聞の夕刊は断っている家も多いらしいー

さておき、
久々の図書館で探した。
「平成とは」というシリーズで、奔流トヨタ
ホトケに魂を入れる難しさとして、トヨタ方式を米GMが
真似ても上手くいかないという記事の
後半にたったの5行。

トヨタ流で郵便仕分けを見直したが効果は進まなかった

おいおい、あったよなあ
線を引いて何歩で移動する
順立ても、特殊室からも椅子をてっきょする

何秒減らせるかとやっきになっていた時代

今の作業場はコンプラ第一で、全てが残業代に繋がる。
それでいて、残業するなと追い詰めるが
集配の帰りは遅い。
18ー20の希望を、帰ってこない集配員に夕刻5時近くに
連絡すれば、その為にバイクで回ることでさらに遅くなる。

再配希望の為にいくら残業代が掛かっているのか

紙の無駄も多い
トヨタ方式は何だったのか なあ
そして、講師指導料外注費膨大で、いまや痕跡無し。
責任も問われず、ブームと共に消えて知らん顔

平成の郵便局も振り返って反省すべきだなあ
 

ゴリちゃんが亡くなられた?

 投稿者:じろ  投稿日:2019年 2月25日(月)12時46分19秒
  東京東部時代のつながりですまないが

全逓東京東部地区青年部で、ひときわ異彩を放っていた
ゴリちゃんこと、山岸 政志郎 さんが亡くなりました。

3.11後、反原発集会で一緒に参加してきたが、
この間は、春には船橋でお花見
  年末は忘年会で顔を合わせて盛り上がってきました。
笛を吹けば、わあ~っしょい!
そんな声が今でも耳に残る、お祭り男で、労働運動を
一身に突き進んできたゴリちゃん。

肺がんの苦しみの後ですが、
4年前に交通事故で一時、記憶を失い!
妻の顔も判らぬところから、なんとか復活してきた矢先でした。

大いに泣かせてもらいました。
99臨中で、檻の中に私がいられたのは、
外にいるゴリちゃんとの繋がりがあったからです。

東京が、少し、遠くなったー
 

小包 アーカイブ 「昔、小包は空を舞っていた」

 投稿者:じろ  投稿日:2019年 2月18日(月)11時34分11秒
  物が捨てられない理由の一つに
全てのそこに、価値を感じて勿体無く思うから?

30年以上もまえだろうか、こんな記録が出てきた
郵便の全ては、郵袋に詰め込まれて輸送
小包も放り投げられていた。

区分局2F 小包課
シューターが稼働していた風景
 

母が亡くなって―

 投稿者:じろ  投稿日:2019年 2月 8日(金)00時14分54秒
  しがない郵便屋が静岡に土地を買って、家を建てて、娘二人を仕送り大学

出させて、結婚式挙げて~

正直、親の支援と親の年金が注がれ続けてきたのは事実だ。

無論私も、深夜勤を積極的に30年近く続け、年間の祝日はすべて出勤し
かなり厳しい働きだったが、残業は喜んで受け入れてきた・・・

しかし、金は貯まらない人生できた。

私は決して、マザコン男ではないと自負しているが、
たまの実家で、妻が母に嫌味を言われても、
妻をフォローすることはなかったし、実家で妻への気配りもなかったし、
母からは目いっぱいの干渉を受け入れてきた。

まあ、大いに依存してきた。
一昨年の父に続いて、1月30日深夜に自宅で息を引き取り、
明けて早朝、担当医師によって31日、死亡と確認された。

親父は多くの絵を残したが、母は俳句を残した。
しかしそれを「句集」としてまとめるだけの今は力がない。

ただ、
2015年5月15日の中日新聞に、
東京新聞・中日新聞 共同企画「平和の俳句」に、選ばれた。
選者は、
いとうせいこう氏と 金子兜太氏で、見事という作だった。

青酸カリ 配られしこと 敗戦忌

まさにストレートな衝撃である。
この時の自宅への取材記者の解説も見事だった。その記事を葬儀に添えた。
このお通夜の夜、
葬儀場に泊まった私の下に、宮沢輝明さんという中日新聞記者が見えられ、
新聞の写真を持参してくださった。
新聞のコピーに写真を貼り、
母が大切に保管していた、当時、写真館で撮ってもらったという20歳の写真も
くっつけた。
(これをみて、マザコンと言われても 惜別の時だからかまわない)

ただ、
本当に晩年。この浜松飛行学校に勤めていた頃の話を良くした。
自分より年下の青年たちが、志願して鹿児島に向かっていった。
何人かを見送ったと。

その時、上官から「鹿児島に向かう人たちに手紙を書いてくれ」
と言われた歌が、

君 大空に命ささげし ますらおの 幸を祈りて筆を運ばん-

年明けに会った時、机に書き留めてあった。
この時代、そして敗戦による「自決」と隣り合わせの事実。

この話を、この時代に少年で過ごした方は、
「うちの母親も青酸カリを渡されて、米軍が来たら子供を殺せ と言われた」
と語る。
敗戦時、どこにでもあった事実として、記憶に刻んでくれた。
 

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